花市場の幕開け(昭和5年)
下関地区の花き栽培の歴史は全国でも古く、大正15年頃には露地での花き栽培の他、温室での花き栽培がすでに開始されていました。昭和に入り、数名の同志が神戸楠町の生花市場を視察するなどの調査を行い、下関市山の口連隊馬場の跡地にバラック建ての市場(下関花卉園芸生花市場)を開いたのが下関花市場の幕開けとなりました。当時の市場は、生花商も少ないことから、相対売りの慣習があり、買い手方の顔ぶれによって相場が変動するような状況でした。 |
下関高級花市場創立(昭和7年)
昭和5年創立の下関花卉園芸生花市場を下関高級花卉市場(組合員数24名)に名称変更。花き栽培者も年々増加し、温室面積も急増し、満州への輸出も増大してきた時代でした。下関高級花卉市場は昭和12年に山の口から唐戸町に移転。 |
防長花卉園芸組合創立(昭和10年)
下関高級花卉市場に次いで防長花卉園芸組合(組合員数47名)が創立。 昭和14年には全国61か所で花き市場が開設されていましたが、その多くは東京、関西などの大都市に設置されており、下関市に2か所の花き市場が設置されていたことは、下関が当時から有数の花き産業都市であったことが伺えます。 |
戦争による市場の閉鎖(昭和19年)
昭和16年に太平洋戦争の時代に突入し、花き産業も大きな影響を受けることになりました。それまで順調に伸びてきた花の生産や消費は昭和16年に発令された作付禁止令(作付統制令)によって大きく後退することになります。ガラス温室は光るので、空襲の標的にされることから取り壊され、いっぽうで贅沢品、嗜好品の類は生産を制限されることとなりました。 このように戦時色が年々強まる中で、日本各地の花卉市場は終戦を前にその歴史を閉じており、下関高級花卉市場も昭和19年に閉鎖を余儀なくされました。 |
終戦からの復興(昭和20年)
市場施設は空襲により一部焼失したものの、終戦からまもなく、市農業会直営による花き市場が再会されました。昭和24年には下関花卉園芸農協(組合員数179名)が創立され、花き市場の経営を受け継ぐこととなり、復興への道筋が開けることとなりました。昭和27年に市場新築に伴い唐戸町から南部町に移転。 |
地域の拡大(昭和29年)
戦後の復興に伴い、花き栽培面積も順調に伸びていき、組合のエリアも県内一円(一部を除く)に拡大されました。市場の取扱高も増加し、昭和37年には1億円を突破し、その後も上昇していきました。 |
下関合同花市場の設立
昭和55年に花好生花と合併し、株式会社下関合同花市場が誕生し、市場の場所も現在の下関市椋野町に新築移転しました。平成5年には取扱高24億円を達成し、県の花き流通の拠点となっています。 |

花市場風景
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アイリスの半促成
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彦島西山の温室風景
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ストック
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| (参考資料:下関花卉園芸農協創立15年記念会誌、フラワーオークションジャパンHP内花市場の歴史より) |